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記者からNPOへ転職。「社会を変えたい」という思いを胸にカタリバを選んだわけ/NEWFACE

vol.398Interview

date

category #スタッフ #インタビュー

writer 佐々木 正孝

Profile

草加 夢野 Yumeno Kusaka みんなのルールメイキングプロジェクト

島根県江津市出身。宇都宮大学国際学部国際社会学科卒業後、共同通信社に入社。岩手・広島・滋賀で記者として約7年間勤務し、東日本大震災や平和、原爆に関する取材に従事。2023年の出産から復職後に転職を考え、2024年11月にカタリバ入職。現在は「みんなのルールメイキング」事業部の広報ユニットに所属し、オウンドメディアやSNS発信、取材対応などを担当している。


ここ10年で、仕事のあり方・捉え方は、まったく違ったものになってきている。終身雇用は崩壊、転職は当たり前のものとなり、複業やフリーランスも一般化。テクノロジーの発達によって無くなる仕事予想も大きな話題となった。給料や肩書よりもやりがいや意味を重視する若者も増え、都会から地方にUIターンすることも珍しくなくなった。世界が一斉に経験したコロナ禍をへて、今後ますます働き方は多様に変化していくだろう。

そんな中カタリバには、元教員・ビジネスセクターからの転職・元公務員・元デザイナーなど、多様なバックグラウンドを持った人材が就職してきており、最近は複業としてカタリバを選ぶ人材もいる。その多くは20代・30代。彼らはなぜ、人生の大きな決断で、いまNPOを、いまカタリバを選んだのか?

連載「New Face」では、カタリバで働くことを選んだスタッフから、その選択の背景を探る。

多くの学校に存在する校則やルールなどをテーマに、生徒たち自身が問いを立て、先生や保護者と対話を重ねながら見直していくカタリバの「みんなのルールメイキング」。その広報を担っているのが、2024年11月に入職した草加夢野(くさか・ゆめの)だ。

共同通信社の記者を7年間勤め、東日本大震災の被災地や社会課題の現場に触れてきた草加は、常に「社会を変えたい」という思いが胸にあったと言う。現在の仕事、そして記者時代から続く思いについて聞いた。


 

子どもの頃に感じていた息苦しさと閉塞感

——現在、「みんなのルールメイキング」で広報を担当していますが、もともと社会や教育に関心があったのでしょうか?

私が育ったのは島根県の小さな町で、小学校の1学年が16人ほどしかいませんでした。自分の言動が常に見られているような感覚があり、子どもながらに息苦しさや窮屈さを感じていました。学校に行くのがとにかく嫌で、たびたび休んでいた記憶があります。

そんな中で、中学生の頃から「もっと違う社会のあり方があるのでは?」という問いを重ねるようになりました。今思うと、小さな町、閉じた空間への反発心が「なんでこうでなくちゃいけないんだろう」という違和感、「社会を変えたい」という思いにつながっていたのだと思います。

——そういう思いもあり大学は県外に出られたのですね。大学時代にはどんな価値観や関心を持って過ごしていたのでしょう?

グローバルな視点で物事を見たいという思いがあって、国際学部へ。社会の格差や構造に関心があり、NGOや青年海外協力隊で働きたいと考えていました。

大学を1年間休学してカナダとドイツに滞在。当時シリアでの内戦激化に伴い、多くのシリア難民を受け入れるドイツは「寛容な国」という報道を目にしていましたが、現地の駅前で雨に打たれながら雑魚寝する難民の家族を目の当たりにし、ハードな現実に衝撃を受けました。
「自分の目で見て確かめること」の大切さを痛感した経験です。

また、大学時代に9歳上の兄が労災事故に遭い、後遺症が残るという出来事もありました。「人間のもろさ」を痛感すると同時に、やさしくて頼れる存在だった兄が、社会の中で「弱い立場」に置かれた途端に不便さや冷たさにさらされる姿を見て、「どんな人でも生きやすい社会をつくりたい」と強く思うようになりました。

そうした背景が重なって、「社会の変化を見たい、現場を知りたい。そして何かを発信したい」という気持ちが芽生え、自然とジャーナリストという仕事を考えるようになったんです。

「伝える」から「ともに考える」へ。
記者生活で感じたこと

 

——大学卒業後は共同通信社で記者をされていたそうですね?。

はい。最初の赴任地は岩手県でした。
2011年の東日本大震災当時、私は高校生で、ニュース映像に衝撃を受けつつも、どこか遠いところの出来事としか受け止められていませんでした。

けれど、震災から7年後に記者としてその地に赴任し、実際に足を運び、声を聞き、暮らしに触れる中で、「当事者ではない自分ができること」を真剣に考えられるようになりました。

中でも印象に残っているのは、取材をきっかけに仲良くなった方と「被災者」「記者」を越えた関係をもてたことです。海岸沿いに取材に行った際、その方の家に立ち寄って顔を出すと「ごはん食べていく?」と誘ってくれるなど、自分の孫のように娘のように接してもらえたことがうれしかったです。

また、岩手の釜石では、子どもたちの居場所づくりを支える団体を何度か取材させてもらいました。そこで出会った子どもたちは、「被災した自分たちの町をどう魅力的にしていくか」といった問いに真剣に向き合い、驚くほど生き生きとしていて衝撃を受けました。

——どういう衝撃だったのでしょう?

「私が中高生の時と全然違うじゃん!」というのが率直な感想です(笑)。
私は地元を好きになれず、大人のことも信じられず、「早く出たい」とばかり思っていました。そんな自分と、地域と前向きに関わろうとする子どもたちとのギャップは、とても大きく感じられました。

その子どもたちの背後には、親でも先生でもない“ナナメの関係”の大人たちがいました。子どもたちの声に耳を傾け、ともに考え、見守っている。その存在が、子どもたちの主体性を引き出していたのだと強く感じました。

その様子を見ているうちに、いつか自分も子どもたちにとっての“ナナメの大人”になれたら、という思いが生まれたんです。「伝えること」だけでなく、「支えること」「ともに考えること」への関心が広がっていったのだと思います。

——その後、岩手から広島、滋賀と赴任して新聞記者生活が7年。どのようなことを感じましたか?

速報性が重視される世界で、ようやく出会えた相手でも、ごくわずかな時間で取材しなければならないことが多くありました。もっと丁寧に話を聞き、関係を築きたい、という思いが募りました。

また、記者は権威や常識にとらわれてはならず、常に懐疑的な立場から事実を追います。それは「常に批判的に物事を見ていく」ことにもつながります。
そういった姿勢も大切だと思います。ただ、何かを変えたくてこの仕事を選んだけれど、批判ばかりで本当に社会は良くなるのか?その疑問が、次第に心の中で大きくなっていったのです。

そうした中で結婚、出産を経験しました。2024年春に復職した際は、子育てと記者業を両立する難しさにも直面しました。働き方と今の自分のライフステージを照らし合わせ、「このままでいいのだろうか」と悩むようになったんです。

岩手でカタリバを知り
「いつか関わってみたい」と

——その葛藤から転職活動へ。なぜカタリバに?

岩手で記者をしていた頃、カタリバの活動に触れる機会がありました。そのときからずっと、「いつか関わってみたい」と感じる団体の1つでした。転職活動を進める中、カタリバで募集していることを知り、他の企業から内定をいただいていましたが、「カタリバを受けずに決めるのは……」と思い直して応募を決めました。

——入職の決め手になったのは?

自分の中にずっとあったのは「社会を変えたい」という思いと、記者として現場を歩く中で育った「もっと誰かと一緒に、よりよいものをつくっていきたい」という思い。そして、釜石で出会った “ナナメの関係”への共感です。
カタリバには、それら全てがあるように感じました。

先ほど触れたように、私が生まれ育った地域は「誰がどうした」とすぐに噂になるような空気があって、先生に対しても、学校という空間そのものに対しても、言葉にできないモヤモヤがありました。

カタリバのことを知っていく中で、そういう社会をよりよく変えていくことが実現できそうだ、という手応えを感じたのです。

——「社会を変えたい」という思いを、カタリバでどう形にできると感じましたか?

選考過程で、マイプロジェクトやルールメイキングという事業に触れたとき、自分の経験や価値観と重なる感覚がありました。「子どもたちの声を中心に置く」「対話を通じて社会をつくる」というその姿勢を見て、今の自分が一番力を尽くしたい部分だと思えたのです。

入職後は「みんなのルールメイキング」に配属。この事業には、学校の先生や現場に直接伴走する課題解決ユニットと、発信を担う広報解決ユニットがあります。私は広報解決ユニットの一員として、オウンドメディアの記事執筆、SNSの運用、取材対応などの業務を担っています。

“どう変えるか”ではなく
“どう関わるか”を大切に

——「みんなのルールメイキング」という事業について、あらためてお聞かせください。

日本の子どもたちは、諸外国に比べて自己肯定感や効力感、社会への参画意識が低いと言われています。「みんなのルールメイキング」は、そうした課題に向き合うために生まれた事業です。

子どもたちにとって最も身近な社会=学校の中にあるルールとなる校則を自分たちで問い直し、異なる他者との対話を通じて見直していく。そのプロセスの中で、「社会は変えられる」という実感や、身の回りの課題を自分ごととして考える視点を育てていくことを目指しています。

——近年では、「ブラック校則」という言葉も注目を集めました。変えるべき校則は各所にありますが、事業名は「ルールチェンジ」ではないのですね?

そうです、あくまでみんなの「メイキング」です。変えることが前提ではありません。大切なのは、「自分のこととして考えてみる」ことだと私は思います。実際に考えた結果、「変えない」という選択をする学校もたくさんあります。

たとえば、生徒たちが不便に感じていたルールでも、背景にある先生たちの思いに気づくことで、あえて「変えない」と決めることも。先生と子どもたちが対話を通じて共に考え、合意をつくっていく。それが、ルールメイキングの本質だと感じます。

——ルールメイキングに携わっていく中で、どのようなことにやりがいを感じますか?

入職して間もない頃、ルールメイキング活動を行う教員の方をインタビューしたことがあります。その方が完成したインタビュー記事を見て「自分の考えを文章にしてもらうことに心地よさを感じた」「これは生徒と私の記録です」と言ってくださったんです。

前職でのスキルを生かしながら、「人」としてつながれた瞬間だと感じましたし、そのことに大きなやりがいを感じました

——仕事と家庭を両立する中で、「社会を変えたい」という原点にも向き合われていますね。今後は、どんな価値を届けていきたいですか?

「ルールメイキング=校則やルールの見直し」という認識を越えることです。
ルールだけでなく、学校で毎年行われる行事や修学旅行の行き先など、幅広いテーマにおいて、子どもたちが異なる立場の人との対話を通じて、みんなにとっての「納得解」が形になるよう活動しています。

そのことを、しっかりと発信していきたいと考えています。現場で子どもたちと向き合っているメンバーたちと一緒に、どうすればより多くの学校にこの営みを広げられるのか、丁寧に模索していきたいです。

個人としては「謙虚でいること」「素直でいること」を大切にしながら働き続けたいですね。子どもを産んでから、特にその感覚が強まりました。
言い訳をしたくなる瞬間もあるけれど、まずは自分が誠実でありたい。そう思えるようになったのは、子どもと向き合う日々があるからこそです。

カタリバという場は、自分をそのまま受け入れてくれる場所です。子育てや家庭の状況も丁寧に理解しようとしてくれるし、完璧でなくても「じゃあベターな形でやってみよう」と、一緒に考えてくれる。そんな仲間たちと働けていることに、深く感謝しています。


 

「前職は人の話を聞くことが日々の業務でした。カタリバに入って、社内外のみなさんとの対話の多さには新鮮な驚きがあります。でも、そこにやりがいがありますね」

最後にこう語って微笑んだ草加。インタビュー中も、語りながら考え、そして考えながら言葉をつむぐ。問いと向き合いながら話すその姿に、対話を仕事の軸とする姿勢がにじみ出ていた。

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Writer

佐々木 正孝 ライター

秋田県出身。児童マンガ誌などでライターとして活動を開始し、学年誌で取材、マンガ原作を手がける。2012年に編集プロダクションのキッズファクトリーを設立。サステナビリティ経営やネイチャーポジティブ、リジェネラティブについて取材・執筆を続けている。

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