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10代interview/仁さん「震災はあったけど、夢は変わらない。立派な漁師になって、女川に絶対戻ってくる」

vol.036Interview

date

category #10代 #インタビュー

writer 青柳 望美

震災当時は小学5年生だった仁さんが歩き始めた、未来への道。

カタリバが“震災の悲しみを強さへ”をコンセプトに、宮城県女川町で心のケアと学習支援を行う、被災地の放課後学校コラボ・スクール「女川向学館」。仁さんが女川向学館に通い始めたのは、中3の冬。冬季講習のチラシを見て、高校受験に向けて勉強をしに行こうと思ったことがきっかけだった。話を聞いたタイミングは、高3の2月。2011年3月11日のあの日、小学5年生だった仁さんは、この春大好きな地元を飛び立ち、県外の会社に就職する。

「震災はあったけど、夢は変わらない。立派な漁師になって、必ず女川に戻ってきます。」と力強く語った彼が、女川向学館で過ごした日々は?

仮設住宅で過ごした5年間。受験を前に、勉強のために女川向学館に通い始めた。

震災当時は小学生でしたね。

そうです、小5でした。自分の家も含めて、集落のほとんどの建物が流されて。お父さんは兼業の漁師なんですが、船や漁具も流されました。それで、小5から高1まで、5年間仮設住宅に住んでいました。

仮設はやっぱり狭くて…1人になりたい時とかも、我慢するかトイレに行くしかなくて、勉強しようにも、隣りの家の音とかテレビの音とかがあって。でも、あの時はみんなそうでした。

女川向学館に通い始めたきっかけは何でしたか?

中3の時に冬期講習のチラシを見て。高校受験も近かったので、勉強しようと思って行きました。小学生くらいの時からずっとお父さんに憧れて漁師になりたかったので、水産高校の進学を目指していて。でも行ってみたら、普通の塾じゃないなって。学校とかみたいに、静かな感じで勉強する場所なのかなと思っていたんですけど、楽しそうにワイワイ授業をしていて、いい意味で思っていたのと違いました。

大好きなお父さんを助けたい。ホヤの魅力を広める、自分だけのマイプロジェクト。

仁さんは「ホヤの魅力を全国へ!」という活動でマイプロジェクトアワードに出場し、全国222プロジェクトの中からベストオーナーシップ賞を受賞していますね。マイプロジェクト始めたきっかけは何だったんですか?

*マイプロジェクト:高校生が自分の身の回りの解決したい課題やテーマを元に、自分でプロジェクトを立ち上げ実行するプロセスから学ぶ実践型探究学習プログラム

きっかけは、のぶさん(カタリバスタッフ)にやってみないかって声をかけられたからでした。冊子とかチラシとかを見て、これだったら「やりたいこと」ができるなって思って始めました。

やりたいことと言うのは?

お父さんを助けたいっていうのがあって。お父さんは兼業の漁師で、ホヤ養殖をしているんですが、震災があって。ホヤは大部分を韓国に輸出していたんですけど、震災の影響でそれが禁止になりました。その影響で苦しんでいるお父さんを見ていたので、ホヤの魅力を広めて国内の消費が増えれば、お父さんも助かると考えていました。

それで「ホヤの魅力を全国へ!」というプロジェクトを始めたんですね。具体的にはどんな活動をしたんですか?

高1で始めて、2年間でだいたい500人くらいの人にホヤの魅力をプレゼンしました。衝撃的だったのが、生のホヤを食べてもらったら、首をかしげていた山梨の高校生がいて。その時初めてホヤを苦手な人がいるってことを知りました…それで、ホヤが苦手な人でも食べられる「ホヤボール」というコロッケのような料理を開発しました。ホヤボールは、毎年3月に行われている女川町のお祭り「復幸祭」に2年連続で出店して、1年目は600個、2年目は900個売ることができました。

マイプロジェクトをやっていて、1番嬉しかったこと、辛かったことを教えてください。

「ホヤを食べられるようになった」とか「ホヤボールなら食べられる、もっと食べたい」という人がいると、すごく嬉しかったですね。辛かったことは、プロジェクトを大きくしていくと、どんどん忙しくなって。学校ではバスケ部のキャプテンと生徒会もやっていたので、学校生活と私生活とマイプロと、両立させることが難しくなって辛い時もありました。

でも一回やり始めたことを中途半端に終わらせたくなかったし、「自分のペースでやっていいんだよ」ってスタッフさんに言ってもらって気が楽になりました。

全国高校生MY PROJECT AWARD2016でベストオーナーシップ賞を獲得した際に、伴走した女川向学館スタッフともに撮影

「こんなに笑ったのは久しぶり」。女川向学館は楽しくて、心が安らぐ場所。

女川向学館に、勉強というよりマイプロジェクトをしに来ていた感じなんですね。仁さんにとって、女川向学館はどんな場所でしたか?

気軽に来て、勉強もできるし、勉強しないで遊んで帰ることもあるし、なんだろう…勉強を強制されるわけでも、遊んでいて怒られるわけでもないし。心が安らぐ場所です。こんなに笑ったの久しぶりだなと思ったんです。普段が極端に楽しくないわけじゃないけど、普通だったというか…ここに来ると、色んなスタッフの人がいて、みんな面白くて、話すのが楽しかったんです。ノリが楽しかったのかな?あんまり今まで話したことがないような感じの、色々な人がいたので。

向学館のスタッフの人たちって、先生って感じじゃないんですよね。先生と友だちの間っていうか、すごい話しやすいし、楽しいし、なんかカウンセラーみたいな感じ。自分はネガティブ思考なところがあるので、こんな風に考えるんだなとか、こういうことで悩んだりしないんだなとか。みんな明るかったので、影響を受けました。

立派な漁師になって、絶対戻ってくる。この浜は、絶対に帰って来たい家のような場所。

将来の夢は?と聞かれたら、なんとこたえますか?

うーん…ホヤの養殖だけで飯を食っていけるようになることですね。

なので、ホヤを広めるのは俺の一生の課題。ホヤを売っていくことは、ホヤを買ってくれる人がいないと成り立たない。買い手がいないという問題に、今後もぶつかると思います。マイプロジェクトは今は一区切りだけど、また何かしらのかたちでやることになると思います。

あとはお父さんがずっと憧れなので、臨機応援にその場の状況にどんどん対応していく漁師になりたいです。立派な漁師になって、10年をめどに、女川に絶対に戻ってきます。

絶対に戻ってくる。強い意志を感じます。どんな想いが背景にあるのか教えてください。

生まれ育った浜が好きだし、ここに住んでいる人も好きだし、最後は絶対にここで生活したいっていうのがあって。小さい頃から近所のおばあちゃんたちにも育ててもらって、ずっとこの浜を駆け回って大きくなったので、集落の中で知らない人はいないですし、みんな自分の親みたいなんで。

でも地震がおきて、津波がきて、家も集落も何もかも流されて。確かに多くのものを失ったけど、起きてしまったから。起きてしまったものは、仕方ないじゃないですか。前を向くしかない。地域の絆や団結力はいちだんと高まったし、新しく得たものもあったと思っています。今の自分には必要なので、一旦離れるし、それは抵抗がないけど、絶対帰ってきたい家のような場所なんです。

女川向学館からも卒業ですね。

すごいお世話になったんで、女川に帰ってくるときには、魚持ってこようかなとは考えてます。同世代で1番使わせてもらったなって自覚があるし、本当に迷惑かけたので…恩返ししていきたいですね。

いつかお世話になった向学館のスタッフさんを、好きなところに旅行に連れていきたいなとも思ってます。

そこまで!ちなみに…どんな迷惑をかけたのか、教えてもらえたりしますか?

え!いや、まぁ…色々です、色々!

(教えてもらえませんでした…)

仁さんは、いよいよ19年4月から親元を離れて、幼い頃から抱き続けていた夢に向かって一歩踏み出す。

就職先の会社では、遠洋漁業の船に乗り込み船上生活を送りながら、漁師としての修行を始める。

不安と期待は何%ずつ?という質問に、「不安が80%くらい」と答えた仁さん。言葉とはうらはらに、その表情は明るかった。震災があったという事実は変えることができないが、大切なのはその事実とどう向き合うか。自分自身でどう乗り越えようとするか、ということなのかもしれないと、その眩しい姿に教えられた気がした。

 

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Writer

青柳 望美 パートナー

1983年生まれ。群馬県前橋市出身。大学時代は英語ができないバックパッカー。人材系企業数社で営業・営業企画・Webマーケティング・Webデザインを担当。非営利セクターで働いてみたいと考え2014年4月にカタリバに転職。全国高校生マイプロジェクトの全国展開・雲南市プロジェクト・アダチベースなどの立上げを担当。現在は新規プロジェクトの企画や団体のブランディングなどを担当。カタリバmagazine初代編集長、現在はパートナー。

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