「いま純粋に毎日が楽しい」27歳で大企業からカタリバに転職したわけ/NEWFACE
ここ10年で、仕事のあり方・捉え方は、まったく違ったものになってきている。終身雇用は崩壊、転職は当たり前のものとなり、副業やフリーランスも一般化。テクノロジーの発達によって無くなる仕事予想も大きな話題となった。給料や肩書よりもやりがいや意味を重視する若者も増え、都会から地方にUIターンすることも珍しくなくなった。NPOへの転職も震災以降増え、カタリバにも、元教員・ビジネスセクターからの転職・元公務員・元デザイナー、多様なバックグラウンドを持った人材が毎年転職してきている。その多くは20代・30代。彼らはなぜ、転職という人生の大きな決断で、いまNPOを、いまカタリバを選んだのか?
連載「New Face」では、入社1,2年の新入職員たちがカタリバで働くことを選んだ、その選択の背景を探る。
本田詩織。彼女がNPOカタリバの扉を叩いたのは、2018年のこと。
新卒以来、大手教育系出版社、大手人材企業とキャリアを歩んで来た本田は、入職後福島県立ふたば未来学園高校のコーディネーターとして「総合的な探究の時間」のカリキュラム・授業設計などを担当している。20代でこれまで歩んできたキャリアの次に、NPOへチャレンジした彼女の想いに迫りたい。
教育に課題感を感じた若者が、
NPOというステージを選ぶまで
本田さんは理系出身なんですよね。
教育にはどんなきっかけで関心を持つようになったんでしょうか。
はい、大学では化学を専攻していて、高校理科の教員免許を持っています。「教員」「研究者」そして「教育系出版社」のどれかで働けたらいいな、と考えての進学でした。理系なので同級生たちは大学院へ進学することが多い中で、わたしは卒業して就職しました。
わたしが教育に関心を持ったきっかけは、高校時代の化学の授業なんです。クラスには理系を志望している同級生が多かったのですが、「mol(物質量の単位)」が出てきた途端につまづく人がすごく多くて。しかもエンジニアや看護師のように理系に進学しないと就けない職業を選ぼうとしていたのに、「mol」がわからないから文系に変更する同級生たちを目の当たりにして「教科の好き嫌いで人生が変わるなんておかしい」と思うようになりました。
そのあたりが教育に関心を抱くようになった原体験です。
大学へ進学すると、周りに親が医者や大手企業に勤めている同級生やずっと進学塾に通っていたような子たちがいて、そもそも進学するかどうかから親と議論していた自分とは、何か違うなと…
そのときはうまく言葉にできなかったんですが、『生まれた環境で差が生まれる』ことを実感するようになって。世の中の構造や経済的な格差といった社会問題に興味が出てきて、感心の幅が広がっていきました。
教育に関わる道は色々な選択肢があったと思いますが、
なぜ新卒で教育系出版社のベネッセに進むことに?
わたし地方の出身なんです。広島や山口の、人口6,000人とか2万人くらいの小さいまちで小中高と過ごし、大学で福岡に出たんです。都市部で学ぶ中で、周りと自分の『子ども時代の経験の差』も感じました。どっちがいいとか悪いではないんですけど、地方にいたから機会が少なかったんじゃないかと思うこともあったし、一方で地方だからこそあった人とのつながりが、かけがえのないものだったんじゃないかと思うようになって。
当時自分は地方が嫌で出てしまったけれど、もっと地域愛を持って、自分の育った地域に誇りを持って過ごしていたら、どんな選択をしていたんだろう?と考えたこともありました。
そんなことを考えながら、大学時代に教育系NPOでインターンをしていた時に、島根県の離島・海士町(あまちょう)の隠岐島前高校の生徒が通う公営塾へ足を運んだことがあったんです。
当時廃校の危機に瀕していて。もし廃校になってしまったら、島の人口流出は加速する一方。そこでリクルートやソニーのような大企業で働いていた人たちが島に移住して「高校魅力化プロジェクト」を立ち上げ、動き始めていました。わたしが立ち寄ったのはプロジェクトがスタートして3〜4年経ったころ。具体的には、日本各地から入学希望者を募ったり、島民たちが他地域からの入学生を支援したり、地域の課題をチームで解決していく地域課題解決型学習を実施したり……そういうタイミングでした。
実際にプロジェクトに関わった高校生たちに話を聞いてみると「東京の大学で農業や畜産を学んだら、島に戻って家業を継ぎたい」と目を輝かせていて。少なくともわたしは「こんな地元は早く出てやる」と思って高校時代を過ごしていたので、彼ら・彼女らの表情には驚かされると同時に心が動かされました。
「高校魅力化プロジェクト」を推進している人たちの話も聞いて、「こんな風に地方や教育と関わる道があるのか」と。そして「この人たちのような視野や経験を身に付けたい」と思うようになったんです。
それで、いつかは地方の教育現場に関わりたいけれど、新卒では、教員でも研究者でもなく、民間に出てスキルを身につけて自分の武器を磨きたいと考えるようになりました。民間の中でもベネッセを選んだのは、例えば塾はお金がかかるし、地域によっては近くに塾がなくて通えないケースもありますよね。教育系出版社であれば、より多くの子どもに「教育」を届けていけると思ったからです。
ベネッセではダイレクトメールをつくる部署で3年ぐらい働いていました。
カタリバに転職するに際に本田さんの決め手となった出来事、
背中を押してくれた言葉とかは覚えていますか?
ベネッセで3年たって、基本的なビジネススキルも身に付いて、次のステップとして、広告の企画を自分の武器といえるレベルにするためにもう少し修行をしようと、リクルートに転職しました。そこから1年半ぐらいですかね。迷っていろんなひとに相談したけれど、結局は現場で働きたい気持ちが高まり、カタリバへやってきました。
本当に偶然なんですが、大学時代にNPOを一緒にやっていた先輩が徳島のほうで活動をしていて。もともと興味があったので、何度か遊びに行くなかで、カタリバの職員と出会いました。そこで「カタリバでもこんなことをやっているよ」と紹介してもらって。
当時はリクルートに転職して1年が経ったころ。明確な不満があったわけじゃないけど、現場に行けないもどかしさも日々痛感していて、転職を緩やかに考え始めていました。そういうタイミングとも重なって、少しずつ物事が動き出していったのを覚えています。だからカタリバへの転職はほとんど決め打ち。他に受けたところはありませんでした。
「福島で働く」ということ
どういう経緯で、ふたば未来学園高校のコーディネーターに?
「地方の教育現場で働きたい」と思っていたわたしに、代表の今村から「福島県双葉郡にチャレンジができる場所がある」と教えてもらったことがきっかけです。福島の拠点長との面接も設定してもらって話を聞くと、ふたば未来学園高校では開校当初から探究学習にチャレンジしていて、いろいろなことに挑戦できる環境だと感じました。
ただ、もちろん不安はゼロではありませんでした。双葉郡は震災の爪痕が色濃く残る町。ふたば未来学園高校は、震災で休校になってしまった5つの高校の意思を継いでできた学校です。わたしは震災当時福岡にいたので、あまり被害そのものを自分ごととして捉えたことがなく、正直なところ岩手や宮城、福島を大きなくくりで考えていたこともあります。復興に向き合う覚悟が自分にあるだろうかと悩みました…でも時間をかけて、自分がどんな場所でどんな仕事がしたいのか考えるうちに納得感が増していき、最後には「よし!福島にいくぞ」と決断しましたね。
実際に働き始めてみてどうでしたか?
実際に双葉郡へ足を運んで感じたのは、町が寂しいということ。立派な建物が再建されているけど、使っている人が少なかったり、帰還困難区域に入ると廃墟になりつつある商業施設があったり……といったこともありました。もともと2万人いた人口が避難指示で0になって、そこから避難指示が解除されて人口は戻り始めているものの、いま暮らしているのは7〜800人程度という町もあります。
話を聞くと、双葉に戻りたいけど、すでに避難先で生活がスタートしている人たちも多いそうです。実際に福島に来るまでは、帰還困難区域の変遷や新しい施設ができたといったニュースで聞くような情報だけでこの地域のことを理解しているつもりになっていましたが、当事者の気持ちの部分や、事実の裏にある背景にも思いを馳せながら、この地について捉えていくべきなのだなと考えるようになりました。
活動していると、震災に関する話をするシーンももちろんあるのですが、最初は戸惑いがありました。どこまで踏み込んで良いのか、でも逆に気にしすぎと思われないか……と。いまでも話すときはドキドキする部分はあります。
1年目の本田(前列右端)
でも、関係が深まっていけば、ポイントが見えてくる。同時に、他の地域と変わらない日常が、この地域にもあるということが再確認できて。そのことに気づけたら、少しずつコミュニケーションが楽になりました。1年も経てば先生たちとも打ち解けられて、地域のひとたちとのコミュニケーションも増えました。先生に自分の意見をぶつけて議論することも、いまではできるようになったと思います。
わたしは直接震災の被害を受けたわけでもないし、震災復興を第一の目的として福島へ行ったわけでもありません。高校という現場で新しい教育をつくっていきたいと思っていて、現場がたまたま福島だっただけ……と思っていたのですが、やはり震災と切り離して考えることはできない。復興を推進していく人材を輩出する学びづくりを使命にやっていきたいと、いまは強く考えています。
主役は生徒たち。
あくまでも伴走者として
ふたば未来学園高校に配属されて2年弱。
ご自身の介在価値を感じるのはどういうときでしょうか?
数字のような分かりやすい成果は見えにくい仕事ではあるんですが、中長期的に見たときの生徒たちの成長を実感できたときですね。
『未来創造探究』という地域の課題を見つけて自分たちで解決していくという授業では、半年に1回ぐらい発表会があります。わたしは先生たちとカリキュラムをつくったり、プロジェクトの進行を管理したりと、生徒たちの伴走者みたいな関わり方をしているのですが、前回の発表会よりもアクションが進んだり、学びが深まったりした瞬間に立ち会えるときはすごく嬉しいです。本当に小さくても良いんです。「絵に描いた餅」だった仮説を地域に出て検証してきた、自分でもうまくいっているのかわからない状況で前に進めてきたという事実だけで、私たちは感動です。
「総合的な探究の時間」は、2022年の新学習指導要領実施をもって全国で始まる学びですが、ふたば未来学園高校は、2015年の開校当初から先行して探究的な学びを実践している全国でも数少ない学校の1つです。学習指導要領が変わって、これからヨーイドンで「探究」という科目が始まるという状況下で、先生たちと一緒に最適解をつくれているのは誇りに思います。
生徒たちの伴走者としてどんなことに意識しているのですか?
「生徒から主体を奪わないこと」ですね。「あなたはどうしたいの?」という問いかけはものすごく大切にしています。「ああしなさい、こうしなさい」という言葉を口にすればするほど生徒たちから好奇心を奪ってしまうので。先生でも友達でもない『ナナメの関係』という立場で学校の中に入っているからこそ、生徒と関わる時の適度な距離感を大切にしています。
あと、大切にしていることは、関係者を巻き込みながら、生徒たちが主体的に学び、社会に巣立っていける『学びの環境』をつくっていくこと。なので、例えばすり合わせ不足や認識の相違で滞ったりトラブルが起きそうなところは、そうなる前に、先生や関係者とコミュニケーションをとって、先手を打っておくこともあります。そうやって環境づくりに取り組めるのは、会社員として働いた経験があるからかもしれません。
最後に聞かせてください。
本田さんの今後の目標とは?
そうですね……先ほどもお話ししましたが、ふたば未来学園高校でやっていることは、国内でもかなり先進的な部分が多いと思います。ここで実践したことを、例えば他の学校に届けていって、日本の教育の底上げに貢献できたら嬉しいですね。
今わたしはたぶん、会社員として働いていたころよりも、イキイキしているんじゃないかと思うんです。自分のWillに従って働けているからだと思うのですが、純粋に毎日が楽しい。カタリバにはわたしと同じようなひとが多く、近い価値観で教育について向き合えて、議論できる人がたくさんいる。彼らからの刺激も大きいです。
わたしにとって理想の仕事とは「自分がワクワクすること」と「自分の仕事に対して誰かが『ありがとう』と思えること」が両立すること。そういう瞬間に多く立ち会えていることはすごく幸せです。
大企業の会社員からNPOへ。一見、ガラッと環境を変える大きな人生の決断をしたように見えるが、本田は過去の経験をいまの環境に反映しながら、少しずつ成果を残していた。
「会社員経験者にはNPOで活躍できるチャンスがあると思う」。その言葉を証明するかのように、本田は今日も教育現場と向き合っている。
取材・文・写真=田中嘉人
企画・編集・バナーデザイン=青柳望美
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田中 嘉人 ライター
ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。
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