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「地元で生きるってかっこいい」東日本大震災を経て20歳を迎える新成人/ハタチの肖像#002

vol.133Interview

date

category #インタビュー #10代

writer 長濱 彩

どんな環境に生まれ育った10代も、意欲と創造性を育める未来を目指して2001年から活動するNPOカタリバ。関わった子どもたちの中には、すでに成人を迎え、社会に出て活躍している子たちがたくさんいる。ハタチを迎えようというその時に振り返ってみると、カタリバとの出会いはどんなものだったのだろうか。2022年から成人年齢は18歳に引き下げられることが決まっているが、あえて、ハタチとなるその時に、10代の間に受けた影響について聞いてみたい。

シリーズ「ハタチの肖像」は、卒業生たちが自分の過去=10代の頃と、今と、未来をつなげるインタビュー。

「友達をつくるのは得意だった」
震災で一変した友人関係

カタリバは、東日本大震災後の2011年7月から宮城県女川町で、被災した子どもたちのための居場所と学びの場「コラボ・スクール女川向学館」を運営している。カタリバの東北支援はこの拠点から始まった。震災前、カキやホタテ、銀鮭、ホヤなどの養殖業がさかんだった女川町は、地震と津波で壊滅した。人口約1万人のうち、死者・行方不明者は合わせて827名、住宅倒壊率は82.6%と、被災地の中で最も高い。子どもたちの日常は一瞬にして奪われた。

東日本大震災で最大14.8mの津波が襲った宮城県女川町

あれから9年。

「女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ」。そんな詩を詠み、町の大人を勇気づけた少年も今年成人を迎え、町役場の職員として自分の人生を歩んでいる。”復興”を掲げ、一丸となって取り組んできた町や子どもたちの日常は、この9年間でどのように変わっていったのだろうか。

2019年10月、町内に唯一残っていた「町民野球場応急仮設」の撤去工事が始まり、2020年3月には町内の仮設住宅がすべて撤去されるというニュースも届いた。災害の象徴とも言える仮設住宅がなくなることで、また一歩、町の復興は前に進むことになるかもしれない。

今回インタビューした新成人は、コラボ・スクール女川向学館の卒業生であり、現在測量の仕事をしている遼哉さん。小学校5年生の時に震災が起こった。彼にとってこの9年間はどのようなものだったのか。そして成人を迎えた今、どのような想いで今を生きているのだろうか。

遼哉さん:「地震があった時は、学校の校庭でサッカーをしていました。家は流されたので、もしサッカーをせずに家に帰っていたら、僕は死んでいたと思います。祖父は消防団に入っていたので、山の上に家があったんですが、『いがなきゃいげね』といって山を降りて流されて、今も見つかっていません。よく学校から一緒に帰っていた、仲の良かった同級生も亡くなってしまって。ランドセルを背負ったまま、500円玉を握りしめて一緒にコロコロコミックを買いに行くくらい仲が良かったんですけど…。学校もしばらくは休校で。まだ電気も戻らない頃に一度学校に行ったんですが、午前中だけで帰されました。何してたかなぁ…特にやることがなくて、15時くらいには布団に入っていました」

震災直後、遼哉さんは山の上にある母の実家に身を寄せた。崖の上にあるその家も、床は傾き危険な状況にあったが、他に行き場がない。いとこなどの親戚も一緒に、8人で暮らしていたが、2011年6月になると親子で避難所へ移った。ダンボールでプライベートスペースを区切る避難所生活。遼哉さんは、避難所で知り合ったノリのよい23歳くらいのお兄さんとプロレスごっこなどをして遊んでもらって気を紛らわせた。

遼哉さんが通っていた女川第一小学校は、体育館の照明が落ちて使えず、校庭には仮設住宅が建つ予定だった。校舎は避難所になっていたため授業が行えない。近くの中学校や別の小学校の校舎を間借りして授業は行われた。卒業まで元の小学校に戻ることはなかった。

2011年12月、避難所から仮設住宅に引っ越すことになったが、それを機に遼哉さんの友人関係は一変した。抽選の結果、異なる学区の仮設住宅に入ることになったからだ。知らない人だらけの中、なんとか知っている人を見つけて遊ぶようになった。しかし、遼哉さんにとってそれは辛い経験ではなかったそうだ。

遼哉さん:「結構ハキハキしているタイプというか、友だちをつくるのは得意だったし、ポジティブに受け止めていましたね。一緒に鬼ごっこをすればもう友だち!という感じで。仮設にいた頃はすごく楽しかったんです。仮設住宅がかなり密集しているところだったので、『誰かしらいっぺー』という感じで敷地内を探すと『あ、いたー』と友だちが見つかって。大人も『仮設の中にいるんだったら大丈夫だろう』という感じで、住宅地で遊んでいる時とは違うんですよね。夜遅くまで、ずっと友だちと遊んでいました。でも勉強は苦手で、嫌いでした。できればやりたくない。よく仮設で勉強しにくかったって言う人がいるんですけど、僕の場合は震災前に住んでいた家も築40年くらいの木造家屋だったので、仮設住宅がそんなに不自由だとは思っていませんでした。それよりこの環境でどうやって遊ぼうかな〜ということをいつも考えていましたね。」

「毎日話すのが楽しみだった」
遼哉さんの“日常”にあった向学館

そんな暮らしの中、「無料塾やります」というチラシが配られた。遼哉さんは親に促されて行くことになる。それがNPOカタリバが運営する、のちの被災地の放課後学校『コラボ・スクール女川向学館』だった。女川向学館は、遼哉さんが元々通っていた女川第一小学校に開設された。もう通うことはできないと思っていた母校に、思わぬ形で通うことになった。なじみ深い校舎に足を踏み入れ、「あーまたここに通えるんやー」とじんわり来るものがあったと言う。

運営するスタッフも地元の先生の割合が高く、同級生のお母さんがいるなど、安心につながった。そのうちに、日本全国、時には海外から多様なボランティアスタッフが集まり、勉強を教えるだけでなく、学校での悩みや恋愛、進路についてなどいろいろな話をするようになった。

開校当初の「コラボ・スクール女川向学館」
町のシンボルである女川町の「港」の再興と、「向」学心育成への願いを込めて名付けられた

遼哉さん:「向学館には、ちょっと行きたくない時期もありましたけど、ずっと通っていました。当時出会った人たちのことは、僕はしっかり覚えています。卯野原さん、みさきさん、福井さん、阿曽沼さん、カタリバの鶴賀さんにこうさんにのぶさん・・・もちろん授業で勉強を教わったりもしましたけど、いっぱい雑談もして。『部活はどうなのー?』とか、『最近はこうだよー』という感じで。毎日たくさん話しました。それで自分が変わったなとか心の支えだったとか、そういう劇的な強いものがあるわけじゃないんですけど、それが日常の楽しみだったんですよね。『今日は授業あっからこうさんと話すべー、今日の授業はのぶさんだから話すべ−』みたいな」

中学生になると、英語、数学の授業を受け、受験が近づくと理科や社会も含め週4日は向学館に通った。時には授業がない日にも通い、自習をしたりスタッフに会いに行ったりしていた。中学卒業後は、石巻市にある商業高校に進んだ。遼哉さんは高校生になってからもよく向学館に足を運んだ。向学館に高校生向けの授業はないし、本人の記憶の中でも勉強をしに行っていたわけではなかった。自分でも「なんで行っていたんだろう」と不思議そうだ。

毎日向学館に行く。そこにいるスタッフと話す。それは遼哉さんにとってその当時当たり前にあった日常だ。劇的な何かがあるわけではない。でももしかしたら、親とも学校の先生とも違う、自分に関心をもち、成長を喜び、失敗に寄り添ってくれる存在がいる。それが彼が向学館にふらっと立ち寄れるひとつの理由だったのかもしれない。

緑のTシャツを来た子の右隣が中学生当時の遼哉さん
受験に向けた決起集会で円陣を組んだ時の様子

遼哉さんは高校で商業について学んだ。基本的なお金の動きやエクセルで関数を使った計算など、学んだ知識が社会に出たときにすぐに役立ちそうだという期待もあった。ある日、仮設住宅でできた仲良しの友だち、仁さんが、遼哉さんに手伝ってほしいことがあると言ってきた。

遼哉さん:「女川の特産のホヤでつくった『ホヤボール』ってのを仁君が自分で開発していたんです。くせのあるホヤを美味しく食べられるようにって。それを女川町で毎年行われる『復幸祭』で売って、ホヤの魅力を伝えたい。お前商業でしょ?だから助けてって言われたんです。ぼくって頼まれたら断れない質なんで。『何それおもしろそう!』とすぐに協力することにしました」

仁さんの実家はホヤ漁を営んでおり、仁さんはお父さんの手伝いをしながらホヤの魅力を全国に伝える「マイプロジェクト(身の回りの課題や関心をテーマにプロジェクトを立ち上げ、実行することを通して学ぶ、 探究型学習プログラム)」に取り組んでいた。

仁さんと1日かけてホヤボールづくりを行った当時の遼哉さん(写真左)

復幸祭に出ないか?と誘ったのは向学館のスタッフだった。スタッフは準備から当日、振り返りまで彼らの挑戦を見守った。遼哉さんにとって、自分でお金を動かして利益を出し、出資してくれた会社の経営者たちに配当金としてお金を戻したり、自ら営業してお客さんを集めたりする過程が面白くて仕方なかった。

1年目は600個のホヤボールを完売。2年目は仁さんと製造・販売時の工夫を重ね、900個売った。売り上げは13万円。目標の10万円を超える結果となった。この復幸祭への出店はこの2人の挑戦が起源となり、今でも向学館の生徒が出店している。

「行動したもの勝ち」
向学館は自分の挑戦を
見守ってくれる第二の実家

遼哉さんが高校を卒業したのは2018年3月。進学はせずに就職した。今の仕事は測量の仕事で、災害が起きて堤防や橋が壊れた時などに現地調査に行く。仕事がおもしろいか?と問われると、「おもしろい」と即答できるわけではない。大変なこともたくさんある。忙しい時期には現場の肉体労働と事務処理が重なり、朝5時半に家を出て22時過ぎまで働くこともある。インタビューをしたこの時期は、特に忙しい時期だった。それでも気持ちよくインタビューの時間をくれた遼哉さん。「こういうインタビューにこたえるのは、向学館に対する恩返し」だという。「そんなにできることはないけれど、自分にできることがあるならやりたい」と思うと言う。向学館とは遼哉さんにとってどんな存在だったのか。

遼哉さん:「うーん、ちょっと年上の知り合いがいる場所ですかね。嬉しいのが、そこにいる人たちはみんな自分に興味を持ってくれる人たちなんですよね。それに女川の外から来た人たちなんですけど、女川への愛もある。向学館に行ってなかったら、こんな地元のことが好きじゃなかったと思いますよ」

向学館に立ち寄ると必ず顔を出すスタッフスペース

遼哉さん:「今はこんな自分ですけど、中学までは保守的だったと思います。あまり人に自分の意見を言えなかったり。でも、行動したもの勝ちなんだな、というのを向学館で学んだと思います。やらないよりも、やったほうがいい。この前は、福島の現場で仲良くなったおっちゃん2人とご飯に行った時に、あまりにも僕が地元の自慢話をするので『そんなに言うならお前の地元見せてくれやー』となって。サンマ収穫祭に引っ張ってきました。うちを宿に使ってもらっていいんでって言って。

そういう行動力とか、若いからできることもあるんだと気づけたのは向学館のおかげですね。僕は自分のマイプロジェクトに取り組んだ経験はないんですけど、向学館で色々なことを経験して、見て、学んだんです」

社会人になった今も、遼哉さんはフラっと向学館にやってくる。後輩やカタリバスタッフと話して、スタッフが好きなホヤを差し入れしたりする。スタッフとの写真を、このインタビューに絶対に載せてほしいと言う。遼哉さんにとって向学館とスタッフは、もう一つの家族なのかもしれない。いつでも帰れる第二の実家のような、そんな存在なのではないだろうか。

向学館に立ち寄った時には後輩と話すことも多い

遼哉さんは、1月に迎えた成人式では司会を務めた。「ガッチガチに緊張した」と言う彼だが、「行動したもの勝ち」という自身の言葉を確かに体現している。そんな頼もしき新成人は、これからどんなことをやっていきたいのだろうか。

遼哉さん:「1日でもはやく、自分で仕事をつくれるようになりたいです。自分で仕事をとってきて、人をまとめて、利益も出して、そうやって地域に貢献していきたい。だって、『地元に生きてる』って感じがするじゃないですか。自分の住んでる町の設計と測量をやったんだって言えたら、かっこいい。形に残る仕事なので。役場の人とか地元の人のこともよく知っているので、そういう人たちと一緒に仕事ができたらなという気持ちもあります。でも、まだまだ遠いなぁって、日々痛感してはいて。でも、自分でやれるとこまでやっていきたいなって思っています。」

地元を、友だちを、向学館のスタッフを。自分に関わるすべての人たちを大切にし、巻き込んでいく遼哉さん。その明るさと前向きな姿勢は取材した私たちも勇気づけてくれた。いつか彼がつくった道路や橋が女川町に現れる日が、今から楽しみだ。

向学館の拠点長渡邊との写真を載せるため、インタビューとは別日に向学館を訪れた遼哉さん

Writer

長濱 彩 編集担当

1988年生まれ。神奈川県横浜市出身。横浜国立大学卒業後、JICA青年海外協力隊でベナン共和国に赴任。理数科教師として2年間活動。帰国後、2014年4月カタリバに就職。岩手県大槌町のコラボ・スクールで数学を担当。小学部、適応指導教室の立ち上げにも携わる。第一子出産を機に島根県雲南市のおんせんキャンパスへ異動。不登校支援を行う。第二子出産と夫の転職を機に、沖縄県那覇市へ移住。2019年5月~復職し、在宅でカタリバmagazineの編集を行う。

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