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なぜ元・日本テレビ アナウンサーは、1年間休職してカタリバで働いたのか

vol.310Interview

date

category #インタビュー

writer 田中 嘉人

Profile

加藤 聡 Satoshi Kato カタリバ広報部パートナー

【略歴】
1984年生 東京・中野区出身
2008年 東京大学法学部卒業、日本テレビ入社
(アナウンサー/「news every.」リポーター/政治部記者/「NNNドキュメント」ディレクター/「the SOCIAL」プロデューサー/BS日テレ「深層NEWS」キャスター/デジタル配信デスク)
2022年〜NPOカタリバ・広報部
【その他】
「メディアリテラシー」講師:姫路女学院など
ビデオグラファー:Vookスクール卒業(企画・撮影・編集までカバー)

大学卒業後、日本テレビでアナウンサーをはじめ、さまざまなキャリアを歩んできた加藤 聡(かとう・さとし)さん。

テレビ業界という輝かしくもハードな環境で経験を積んだ2022年、会社の「休職制度」を利用。1年間の休職期間に、カタリバで各事業の紹介動画などを制作するコンテンツディレクターとしてジョインしました。

テレビ局員として、さまざまな社会課題を伝え続けてきた加藤さんが、なぜカタリバを選んだのか。カタリバとの出会いは。就職活動中に抱いた教育への問題意識とは。そして、2023年10月、加藤さんが下した人生の決断とは。

なんのために 生まれて なにをして 生きるのか

——東京大学進学、日本テレビ入社と順風満帆な人生を歩んできたように感じる加藤さん。カタリバとの出会いについて教えてください。

原点は大学時代です。受験勉強を頑張って志望校に入学できたのはよかったけど、やりたいことが明確にあるわけではありませんでした。

東京大学では大学2年の夏に3年以降の学部を選ぶことができるんですが、当時、自分の進路に確信を持てなくて。そんな中で二十歳の誕生日を迎え、将来を真剣に考え始めた頃、みんな知ってる『アンパンマンのマーチ』の歌詞「なんのために生まれて なにをして 生きるのか こたえられないなんて  そんなのは いやだ!」という言葉が非常に刺さったのを覚えています。「このまま流されるように進んでいくのは納得できない!」と思い、1年間大学を休んで(制度上は留年)、自分探しに充てることにしました。

当時、問題意識を共有する仲間と立ち上げたのが、中高生向けキャリア教育団体です。自分は高校時代、学力や偏差値を軸に大学を選んでいて、進学や卒業後の人生への意識が薄かった。後輩たちには同じような思いを持って歩んでほしくはなかったので、友達と一緒に、中学生や高校生たちと「大学生活って?」「学部ごとにどんな違いがあるの?」など、受験勉強以外のリアルを語り合う活動に取り組みました。

そして、同様の活動に先行して取り組んでいたのがカタリバです。都内の中学校で合同でイベントを実施したこともありましたが、僕たちは勝手にライバル視していましたね(笑)。

——活動はいかがでしたか。

めちゃくちゃ楽しかったです。周囲に「今が人生で一番楽しい」と言っていたのを覚えています。ゼロから企画し、自分たちで意思決定し、自分のモノサシを探っていくプロセスに、受験で求められる学力や偏差値といった文脈にはないワクワクを感じました。

同時に、自分自身の特徴も少しずつ見えてきて。「自分はいろんなことに興味関心を持ちやすくて、つまみ食い的にチャレンジしていくことが好きだ」とか、「新しい価値観と出合うのが好きだ」とか、自分のモノサシが見えてきた感覚でした。

“好き”と“得意”と“問題意識”が重なる場所を探して

——なぜアナウンサーになったのでしょうか。

大きく3つの理由があります。

ひとつは、先ほどお伝えした「新しい価値観に出合える」という自分の“好き”を満たせる仕事だと感じたから。

2つ目は、「多くの人にある程度わかりやすく説明する」という自分の“得意”を活かせる仕事だと感じたからです。塾講師のアルバイトをしていたときに、「生徒たちが共通認識を持っているのはこのあたりかな」や「おそらく理解しきれていない人もいるから、ここは補足説明しよう」といった感覚をつかめたことが大きいです。

3つ目は、“問題意識”です。僕の育った時代は、「世の中に元気がない」「失われた20年」などといわれてきたのですが、マスコミの影響が大きいような気がしていて。「テレビがアップデートされれば、世の中の空気も変わるんじゃないか」と思って入社しました。

“好き”と“得意”と“問題意識”の3つが重なったのが、「テレビ局のアナウンサー」という仕事でした。

——日本テレビにアナウンサーとしてご入社後、リポーター、政治部記者、ディレクター、プロデューサーと、実にさまざまなキャリアを積まれています。

まさに先ほどお話しした「いろんなことに興味関心を持ちやすく、つまみ食い的にチャレンジしていく」ですね。アナウンス部にいたのは、2年ちょっと。ニュースの現場を深く知りたくて、報道局へ異動しました。

「news every.」のリポーターとして4年半、事件や事故、災害の現場を中心に取材や中継に取り組む中で、「社会でこうした出来事が発生することに対して、 世の中のルール作りはどうなっているんだろう?」と、今度は政治への関心が高まりました。そして、2015年から4年ほど、政治部記者として、政治家や国家公務員、自衛隊などを取材しました。

その頃、注目され始めたのが「SDGs」というキーワードでした。地上波で扱うほどの関心事にはなっていませんでしたが、ネット番組なら取り組めると考え、担当プロデューサーに。「日テレNEWS24」というニュース専門チャンネルの番組「the SOCIAL」で、社会起業家など、SDGsを含む社会課題の解決に取り組む人々をスタジオに招いて発信。テレビ発のニュースコンテンツをデジタルにも配信していくという、放送局のデジタル化に取り組みました。

こうしたキャリアを重ねたことで、テレビ報道の仕事の中で、カメラ撮影や動画の編集以外のポジションは、幅広く経験することができました。

休職期間にカタリバで働いた理由

——その後日本テレビの休職制度を利用し、カタリバへ。どういう経緯だったのでしょうか。

実は、カタリバとは10年ぐらい関わり続けてきました。

大きなきっかけは、「マイプロジェクトアワード」です。実践型探究学習マイプロジェクトに取り組む全国の高校生が集う年に一度の「アワード」の司会を、このプロジェクトが始まって間もない2013年度から声がけいただいて、日本テレビに「社外活動」として申請した上で、毎年担当してきました。

もう1つの転機は、「ルールメイキング」です。全国の中学・高校の校則やルールを対話的に見直すみんなのルールメイキングの動画教材を制作するプロジェクトに、映像制作のディレクション担当としてお声がけいただきました。カタリバから日本テレビに発注してもらい、僕は日本テレビの担当者という立場で取り組みました。

このように、日本テレビで働きながらカタリバのプロジェクトに参画する中で、自分の知見や経験をカタリバでも活かせる可能性を感じるようになりました。

そんな中で、日本テレビ社内に「休職制度」ができたことを知りました。カタリバ代表の今村久美さんに「休職期間を活用して、カタリバの取り組みを動画で発信するチャレンジをさせてもらえませんか?」と提案。驚かれましたが、機会をいただくことができました。

——他にも教育系NPOはありますが、なぜカタリバだったのでしょう。

大学時代に出会い、日本テレビに入社後も関わる中で、カタリバがどんどん成長し、事業領域を拡大していく姿に魅力を感じていたからです。進化を続けていくカタリバに、動画という新しい情報発信ツールをもたらすことができれば、さらなる発展に貢献できるかもしれない。

日本テレビに入社した時と同じように、自分の“好き”と“得意”と“問題意識”が重なる環境だったので、カタリバへの参画は僕にとっては必然でした。

——とはいえ、日本テレビ時代には、撮影や編集の経験はなかったわけですよね?

学ぶことでカバーしました。渋谷にある映像クリエイターの学校「Vookスクール」へ通って、撮影と編集のスキルを習得しました。テレビ報道は分業体制なので、記者やプロデューサーが自ら撮影・編集することは基本的にありません。自分でも撮影・編集ができるようになったのは、大きな武器を手にしたと思っています。

ワクワクし続けた1年間を経て

——1年間という限られた期間で、かなりの本数の動画を制作された印象です。

うーん、本当はもっと制作したかったんですよね。今振り返ってみると、特に最初の頃はコンセプトがフワッとしたまま動き出して、迷走していたような気がします。

その後、自分なりに試行錯誤したり、広報部のリーダーにも相談しながら、紆余曲折を経て「事業紹介ムービーの3分版と1分版をつくる」という方向性に辿り着きました。スピーディに力になれなかったことに、歯がゆさを感じています。

だから、「成果を出した輝かしい1年」という感覚ではまったくなくて。むしろ「事業推進を側面からサポートできる結果に、これからつなげていきたい」という思いです。

加藤さんが制作した動画の一部

——カタリバに多くの資産を残したと聞いています。

資産というほどのものではありませんが、動画制作プロセスの雛形や機材のリストなどはつくりました。別の方がジョインしてゼロからつくるとなるとまた時間がかかってしまうので。雛形は1年間実践しながらブラッシュアップしてきたので、少しは効率化できると思います。

——1年を振り返ってみていかがでしょうか。

とても充実しワクワクする日々であったことは間違いありません。

動画と向き合うという意味では、テレビ局も同じなのですが、報道機関で取り上げるニュースの特性上、誰かの不幸や問題を伝える場面が多かった。辛い思いをしている当事者にマイクを向けざるを得ないことも多かったですし、取材する自分も辛い思いをしたことがありました。社会にとって必要な役割であるのですが、いろいろな意味で課題も多い仕事でした。

一方、カタリバでのコンテンツ制作は、常にワクワクしていました。もちろん、カタリバも、困っている当事者の方に現場で向き合っています。ただ、それを「困っています」と伝えるのではなく、様々な課題を解決するために力を注いでいる人たちがいて、事業がある。そうした取り組みを学び、撮影し、編集する中では、たくさんの笑顔に出会うことができ、希望の種をたくさん感じることができました。

ある時、カタリバの動画を編集していたら、カタリバのスタッフや先生、生徒のみなさんが生き生きしていて、自分自身もワクワクして。気づけば心拍数が上がっていたようで、スマートウォッチに「大丈夫ですか?」と警告してもらったことも(笑)。「この感情、好きだ!」と思った瞬間が忘れられません。

特に印象に残っているのは、今村久美さんの「カタリバは“アクトタンク”だ」という言葉です。カタリバは実践(アクト)を通じて様々な課題に現場で向き合っていると同時に、調査や研究、教育プログラムの開発も行うシンクタンクなので「アクトタンク」。この考え方を聞いて、ますます好きになりました。

日本テレビを退職し、次へ

——最後に、今後の展望について聞かせてください。

実は、2023年10月に日本テレビを退職します。様々な機会をいただき、成長させてもらったことに感謝しています。自分は、興味関心に従ってこれからの人生も歩んでいきたい。約15年間、どんどん変わる僕の「問い」に、日本テレビが常にフロンティアと役割を与え続けてくたのは僕の財産です。そして、ついに外に出るタイミングが訪れました。

今後について、細かくは決まっていないんです。「教育」や「パブリック(行政・NPO)」「コンテンツ制作」などをキーワードに、自分の時間と情熱を注ぐ次のフロンティアを見定め、進んでいきたいと考えています。

僕が目指すのは、民主主義が健全に機能する世の中づくり。その目標に向けて、これからも領域を横断しながら、模索・実践にチャレンジし続けていきたいと思います。

——カタリバとの関わり方についてはいかがでしょうか。

カタリバが取り組む「教育」は、民主主義の土台として、自分の興味関心のど真ん中です。公教育を全ての子どもに届けることができれば、それは「視聴率100%のメディア」と言ってもいいのかもしれません。

今後も、動画制作やイベント司会など、僕にできることはなんでも貢献したいです。お陰様で、「探究」や「キャリア教育」などの文脈で、学校現場からお声がけを頂く機会も増えてきました。個人で取り組んできた「メディアリテラシー教育」も含め、お力になれることがあれば、できる限りお応えしたいと思っています。

日本テレビという大きな組織を辞めることに不安がないといえば嘘になりますが、これからも、自分らしくワクワクする人生を歩んでいきたいと思います。

 

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Writer

田中 嘉人 ライター

ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。

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