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「“問い”はいつも現場にあるから」震災を機に被災地に移住した彼の10年間/Spotlight #02

vol.224Interview

date

category #インタビュー #スタッフ

writer 田中 嘉人

Profile

菅野 祐太 Yuta Kanno 大槌町教育専門官

2009年、早稲田大学教育学部を卒業。同年、リクルートキャリアに入社。 祖父母宅が岩手県陸前高田市にあった縁もあり、東日本大震災を機に、2011年9月からコラボ・スクール大槌臨学舎の立ち上げに従事。一時、リクルートキャリアに戻るも、2013年4月から、大槌臨学舎の統括担当として勤務。2017年4月より大槌町教育専門官として、他の自治体では類を見ないNPOから行政に出向する形で勤務。2019年4月より岩手県立大槌高等学校カリキュラム開発等専門家として高校に常駐。文部科学省「コミュニティ・スクールの在り方等に関する検討会議」委員。内閣官房長官主催「こども政策の推進に係る有識者会議」臨時構成員。

度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。

すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。

シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。

東日本大震災をきっかけに、当時勤めていた会社を休職し、岩手県大槌町へ向かった菅野祐太。「被災地のために力になりたい」という想いで、震災によって学ぶ場所を失ってしまった子どもたちのために放課後学校コラボ・スクール大槌臨学舎を立ち上げた。

現在は、引き続き大槌町での活動を軸にしつつも、カタリバでのいくつかの新規事業立ち上げや、「子ども庁」の創設に向けた国の政策などにも携わる。それらに共通する想い、そして覚悟に迫りたい。

「被災地の力になりたい」
という想いに突き動かされ休職

ーまず、カタリバにご入職される前の経歴を教えてください。

大学卒業後は、リクルートキャリアへ入社しました。同期の多くが営業配属となるなかで、私が配属されたのは事業戦略や売上計画などを立てる事業企画室。プレッシャーはありましたが同時にやり甲斐も大きかったですね。2年目になると、今まで以上に会社の命運を握るような新規事業の部署へ異動。当時は残業も多かったですが、ますます充実した日々を過ごしていたように思います。

ーまさに順風満帆だったわけですね。

転機となったのは、東日本大震災です。この日のことは忘れもしません。夕方、執行役員との打ち合わせを直前に控えていたので、東京駅近くのビルで資料を必死でつくっている最中に被災しました。大きな揺れを感じたのですが、当時は地震の怖さよりも資料づくりが終わらなくてものすごく焦っていたことを覚えています。

とんでもないことになっていることを実感したのは、帰宅して、テレビをつけたときです。画面から流れていたのは、想像を絶するような災害の様子。言葉を失いましたね。祖母の家が岩手県陸前高田市にあったのでずっと気になっていたのですが、その日はまるで情報が入ってこなくて、2日目、3日目ぐらいでようやく被害状況を知りました。自分が祖母の家に遊びに行くときに立ち寄っていた中心街エリアが、甚大な被害を受けていたんです。

それからは仕事をしていても「自分はこんなことをしていていいんだろうか」という気持ちがどんどん大きくなっていきました。その後、4月にたまたま陸前高田へ足を運ぶ機会があり、長い時間をかけてつくられてきた街が一瞬で消えていった風景を目の当たりにして。現実を受け入れるとともに「被災地のために力になりたい」という志が灯りました。

家族を失った方たちの言葉は、本当に重かったです。ちょうどそのタイミングで以前より親交のあったカタリバの今村亮から「学ぶ場所を失ってしまった被災地の子どもたちのために、学習指導と心のケアを行なう『放課後学校』を立ち上げたいから、協力してほしい」と声をかけてもらったことが、一歩を踏み出す大きなきっかけになりました。

ー選んだのは「休職」という決断でした。これはどういう経緯があるのでしょう?

もともと休職という選択肢は考えていませんでした。退職するつもりで上司に伝えると「もしかしたら今の感情は震災という大きな出来事を間近に見たことによる、一過性のものかもしれない。今はいいかもしれないけれど、いずれまたリクルートで働きたいと思ったときのための道は残しておいた方がいい。だから、休職という道を検討しよう」と話してくれて。

休職なんて、前例はなかったんですよ。でも、社長にも話を通してくれて、「必ず戻ってこい」と背中を押してくれました。

ミクロな課題に向き合った4か月

ー休職期間は2011年9月から12月までの4ヶ月間と聞きました。何から始めたのでしょうか?

カタリバは震災直後から被災地の子ども支援に動き出しており、私が休職を開始したタイミングですでに、宮城県女川町に放課後学校「コラボ・スクール 女川向学館」を立ち上げていました。

そこで、女川町と同様に津波による被害の大きかった岩手県大槌町でも、子どもたちのための居場所を立ち上げようということになり、着任と同時に大槌町へ向かいました。地元の教育委員会との打ち合わせ、PTAや子どもたちへのニーズのヒアリング、寄付してくれる会社との交渉までと、役割は実に幅広かったです。

4か月の間には、コラボ・スクールを立ち上げる計画が白紙に戻りそうな場面もありましたが、なんとか開校にたどり着けました。そして休職終了間近となる2011年12月13日、公民館を間借りして放課後学校コラボ・スクール大槌臨学舎を開校できたときはひとまず安心しましたね。

ー菅野さんというひとりの人間の行動を大きく変えたカタリバの魅力は何だったんですか?

女川町でのカタリバの活動を見て実感したのは、「個の課題と向き合っている」ということです。震災で大きな被害を受けた女川町には、インフラの再建など、町全体として向き合わなければならない課題がたくさんありました。

一方でカタリバの支援は、もっとミクロな課題に寄り添っているように感じられたんです。たとえば学校を再開や子どもたちの居場所をつくるにしても、車は流され、交通インフラも被害を受けているので、通学バスの手配も必要です。そういったニーズを、被災された一人一人の話を聞きながら言語化し、行政と喧々諤々議論しながらサービスをつくっていたのがカタリバでした。

お前に、大槌町を背負う覚悟はあるのか

ー休職期間を終えたあとは一度、リクルートに復帰されたんですよね。

それはもう、上司との約束でしたから。私の想いを尊重して気持ちよく送り出してくれた同僚や上司に、恩返しがしたいという気持ちで復職しました。

ただ、カタリバを離れてからも3ヶ月ぐらいは金曜の夜に秋葉原から深夜バスに乗って、土曜の朝に大槌に到着してボランティアして、また深夜バスで戻ってくる……みたいな生活を続けていました。もちろんリクルートでの仕事は刺激的ですごく楽しかった。その一方、毎週東北へと足を運び続けるなかで、自分の大槌町への想いはどんどん大きくなっていきました。

特に印象的だったのは、当時出会った中学3年生の子どもたちの言葉です。ある生徒が「私たちは何も失っていない。家は流されてしまったけれど、家族をはじめ残ったものがたくさんある。だから、いくらでもやり直せると思う」と言葉を残していたことがすごく心に残っていました。

同時に、「今自分が身をおくべき場所がどこにあるのか」を考えたときに、最初に頭に浮かぶのが大槌の風景で。山積みにされた課題をひとつずつ解決していくことに価値を感じ、退職を決めました。

ーそして、2013年4月にカタリバに入職。その後は4年間コラボ・スクールの校舎長を勤めたのちに、2017年4月には大槌町教育員会の「教育専門官」という役割に就かれます。どういった経緯があったのでしょうか?

大きな転機となったのは、教育委員会の職員から「菅野は大槌を背負うつもりはあるのか?」と問われたことでした。

コラボ・スクールの校舎長として着任して以降、地域の子どもたちの居場所として町との協働の在り方をずっと模索していました。その中で教育委員会など行政機関に提案をしたことも何度もありましたが、外野の人間が「◯◯すべき」「△△すべき」と机上の“べき論”だけを語っているように聞こえていたのかもしれません。

彼の問いをきっかけに自分自身の気持ちを見つめ直し、この地の課題にもっと深く踏み込む覚悟が決まりましたね。もう少し大きな構造から被災地の課題を捉え直せないかと考え、思い切ってコラボ・スクールを飛び出して教育行政、つまり教育委員会に入ることを選びました。

―教育委員会では、どんな仕事に取り組まれてきたのでしょうか?

着任初年度は、町の教育方針となる教育大綱づくりに取り組みました。行政機関だけで方針を決めるのではなく、町民も大綱づくりに加わることで地域の教育に少しでも関心を持ってもえるよう、議論のプロセスづくりを重視しました。

2018年度からは町唯一の高校である大槌高校の存続・魅力化に向けたプロジェクトに取り組んでいます。

ここでは、地域の課題に対して高校生一人ひとりがテーマを設定し取り組む「三陸みらい探究」カリキュラムづくりを行なったり、「県立」高校でありながらも大槌町という「町」にとって必要不可欠である大槌高校を、持続可能な形で運営していくためにはどうしていくか、その体制づくりに着手しています。

“べき論”だけを振りかざす存在にならないために

ー菅野さんの仕事のフィールドは、大槌町内だけに留まらないとも聞いています。他には現在、どういった業務を担当しているのでしょうか?

現在は、国の子ども向けの政策にも携わるようになりました。内閣官房長官のもとで開催された「こども政策の推進に係る有識者会議」に臨時構成員として参加したり、文部科学省の「コミュニティ・スクールの在り方等に関する検討会議」の委員を担当したりしています。

これまでとは若干レイヤーが違うように映るかもしれませんが、スタンスは変わっていません。私はこれまでの経験からどれだけ立派な理念やビジョンを強く打ち出しても、現場に定着・浸透していかなければ意味がないし、そこに向き合わなければ意味がないと思っています。

「みんなが自由に意見を言えて、自己実現ができる世の中になるべき」という考え方は、ここ数年である程度共通認識化してきたように思います。ただ、 ”べき論”だけで物事を突き詰めていこうとすると、必ずどこかで壁にぶつかる。

国の政策が現場にきちんと定着・浸透するよう、現場の視点を持った人間として考えや意見を発信していくことを私の役割であると捉え、取り組んでいます。

ー軸は大槌町に置きながら?

その通りですね。私は多くの人に必要とされるサービスは「個」を起点に生まれると思っています。「1,000人が使うサービスをつくる」のではなく、「1人が本当に必要としているサービスをつくったら、その先に1,000人以上の潜在顧客がいる」という考え方です。

大槌町で起こることは、日本全国で起きている、もしくは今後起きる可能性があります。これまでに、実践型探究学習プログラム「マイプロジェクト」や、大槌高校のような生徒数や教員数の少ない高校同士がICTを活用して繫がり学びを深める「学校横断探究プロジェクトなどの立ち上げにも関わってきましたが、これらも全て、大槌の現場で「これは必要だ」と感じて取り組み始めたことが原点にあります。

2013年に始まり、今では全国1.3万人以上の高校生が参加する学びの祭典となっている「マイプロジェクトアワード」

ー今後の目標について教えてください。

「教育専門官」という役割を経験して感じるのは、これからの時代に必要なのは“問いをつくれる人材”だということ。特に「どこに課題はあるのか」を見極めたうえで「どうやったら解決できるのか」を提案できることが非常に重要だと思っています。

だからこそ、“問いをつくることのできる人材”を育てていきたい。

それに、“問い”を見つける力のベースは現場で育まれます。現場の視点を持ちつつ、俯瞰もしていくことで、目の前の状況を紐解いていくことができる。自分が“べき論”だけを振りかざす存在にならないためにも、これからも現場に身を置き続けたいと思います。

 

菅野は取材後に、「私の話を聞いて、『大変そう』『こんなに苦労してきたんだ』と思われることは本意ではない」と言葉を残した。しかし、最前線で道なき道を切り開いてきたからこそ、「マイプロジェクト」のような今となっては多くの人を巻き込んでいるプロジェクトや、10年にわたり地域に根付く、子どもたちの居場所を創り出してこれたのではないだろうか。

そして、最後に明かした次の世代への想い——菅野が大槌町の未来も背負うことを決めた覚悟を垣間見ることができた。

 

この連載の記事
#01/「ここがあったから夢が見つかった」という居場所をつくりたい。被災地の子どもたちとの8年間

 


 

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Writer

田中 嘉人 ライター

ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。

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