CLOSE

認定NPO法人カタリバ (認定特定非営利活動法人カタリバ)

〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3-66-3
高円寺コモンズ2F

お問い合わせ

※「KATARIBA」は 認定NPO法人カタリバの登録商標です(登録5293617)

Copyright © KATARIBA All Rights Reserved.

KATARIBA マガジン

「教育の選択肢に多様性を」不登校支援に取り組む元・教員の想い/Spotlight

vol.287Interview

date

category #インタビュー #スタッフ

writer 田中 嘉人

Profile

瀬川 知孝 Tomotaka Segawa オンライン不登校支援プログラム マネージャー

1988年生まれ、岩手県盛岡市出身。東京学芸大学を卒業後、大学の附属小学校で1年間、都内の私立中高一貫校で国語教員として3年間勤める。放課後とPBLへの関心が高まっていたところでb-labを見つけ、カタリバへ転職。2020年度からオンライン事業の立ち上げへ軸足を移し、現在はオンライン不登校支援プログラム「room-K」でマネージャーとして自治体営業や事業企画などを担当している。

度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。

すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。

シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。

2021年度、日本の小中学校における「長期欠席者」の数は41万3,751人、うち、不登校の子どもの数は24万4,940人と過去最多を更新した。カタリバが運営するオンライン不登校支援プログラム「room-K」への期待も日々大きくなっており、責任の重さを感じている。

room-K」のマネージャーとして奮闘の日々を送っているのが、元・教員の瀬川知孝(せがわ・ともたか)。「教育の選択肢に多様性を」と教育に向き合う彼の想いをお届けしたい。

大学卒業。大きな挫折を味わった1年を経て

――まず、カタリバへ入職するまでの経歴から教えてください。

高校の頃から「教員になりたい」と思っていました。東北地方で大学進学を考えると、東北大学や地元の岩手大学が候補になることが多いのですが、「文学を勉強したい」「小学校教員の免許も取りたい」という気持ちもあって。

担任の先生に相談したら「東京学芸大学なら、小学校教員の免許を取りながら専門的な勉強ができるんじゃないか」と言われ、「じゃあそこで!」と選びました。

ただ、「何が何でも教員になる!」というタイプではなく、どちらかというと文学の勉強に重きを置いていました。

――就職活動はどうしたのでしょうか。

教員採用試験は受けましたが、結局失敗に終わりました。結果、期限付き採用のような形で大学の附属小学校に拾ってもらい、社会人生活がスタートしました。

僕にとって、附属小学校での経験は非常に大きかったです。公立小学校で経験を重ねて授業研究などで評価されて移ってくるような先生ばかりなので、めちゃめちゃレベルが高いんです。附属小学校の先生は一人ひとりの裁量が大きいので、1組と2組で授業がまったく異なることもありました。

当然、先生自身に教育観があり、授業を設計していく力がないとできません。個人的には学びのあり方を10年先取りしているような印象すら受けました。

一方、僕は普通、もしくは普通以下のことしかできず、クラス担任にはなりましたが、クラスの児童には申し訳ない気持ちが大きかったですね。「せっかくこんなに学びのレベルが高い学校に来ているのに、僕のクラスになったばかりに……」と、大きな挫折を味わった1年でした。

――その後、どのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。

社会人2年目からは、都内の私立中高一貫校に移って国語教員を3年間務めました。どん底にいたことを考えると、ちょっとずつ自信を取り戻すことができた3年間でしたね。

自分としても今まで以上に授業のあり方について学ぶようになり、少しずつ改善していきました。1年目より2年目、2年目より3年目の方が生徒からの評価も良くなって、彼らとの関係性も徐々に良くなったのを覚えています。

「もっと成長しなくてはいけない」を原動力に

――カタリバと出会ったきっかけを教えてください。

小学校勤務時代、研究主任の先生がアンテナの感度が高い方で「カタリバという団体が『ナナメの関係』の大切さを提唱しているんだけど、すごく大事なことで、うちの子どもたちにも必要だと思う」と話してくれたことがあって。「そんな団体があるのか」と思いました。

また、東日本大震災のとき、僕は地元が気がかりだけど子どもたちのことで手一杯で何もできないような状況だったのですが、カタリバはいち早く被災地で活動していることを聞いて……感銘を受け、寄付し始めたのを覚えています。

中高一貫校に移ってからも寄付を続けて、カタリバが取材している「カタリバ大学」というイベントへ参加するため、高円寺オフィスへ足を運びもしました。

――学びに対する貪欲さを感じます。

小学校勤務時代の挫折体験から「もっと自分が成長せねば」という気持ちが強くなりました。当然勉強量も増えましたし、外部の学びの場へ足を運ぶ機会も増えました。カタリバの情報も積極的に取りに行っていたと思います。

あとは高校で僕ができることが、「国語」という教科の中での学習指導と決まっていたので、能力や関心が教科の範疇に留まっていない生徒を見て「もっと何かできるだろう」という気持ちが強くなりました。

5教科の学習が苦手なだけで自己肯定感を失っているような生徒もいたので、「子どもたちに別のアプローチはできないだろうか」と。

だから学校内で同好会を作りたいと思っている生徒を後押ししたり、当時流行り始めていたビブリオバトルへの参加をサポートしたり……生徒たちへ教科以外でアプローチする機会を自主的につくっていました。

――なぜカタリバへチャレンジしようと思ったのでしょうか?

正直なところ、「教員を辞める」という選択肢は考えてはいませんでした。

ただ、教科以外でのアプローチの機会を増やしていく中で、「自分の教育観に近いところで働いてみたい」という気持ちが強くなりました。

ちょうどその頃フォローしていたカタリバのSNSで、「文京区に新しいユースセンター『b-lab(ビーラボ)ができます」というリリースを発見。カタリバがb-labでやりたいことが僕のやりたいことと一致していたことに驚き、最終的にはカタリバへの入職を決めていました。

――決め手は?

チャレンジできる範囲の広さは圧倒的でしたね。あとは単純に縁も感じました。ずっと応援していた団体が職員を募集していて、やろうとしていることが自分の志向と一致しているわけですから。タイミングも完璧だったように思います。

これまでの人生がすべてつながった瞬間

――カタリバ入職後、b-labでの仕事内容を教えてください。

入職後は、カタリバが文京区で運営する青少年プラザb-labのスタッフとして、スタジオを整えたり、中高生の課外活動を支援したりといった業務を担当していました。学習支援もやりましたし、子どもたち同士をつなげてライブのイベントを企画したり、地域のイベントの手伝いをしたり……かなり手広くやりましたね。

もしかしたら、人生で一番楽しい時期だったかもしれません。今までやってきたこととやりたかったことが全部つながって、花開いたような気持ちで、充実した毎日を過ごしていました。その後、「カタリバオンライン」という事業の立ち上げに携わることになりました。

――b-labからカタリバオンラインへ異動した経緯は?

コロナですね。コロナの流行によってb-labが一時休館することになり、さらに学校も休校が決定。その夜に事務所で集まり、「いま、できることをやろう」という話になりました。コロナ禍に自宅で過ごす子どもたちのために「やるしかない」という雰囲気でした。

“カタリバらしさ”を身をもって体感した出来事でしたね。コロナという前代未聞の事態に世の中が混乱していて、子どもたちの居場所もない状況で「じゃあ、カタリバはオンラインで学びの場をつくります」と動けるわけですから。社会的存在意義も強く感じました。

――その後立ち上げたのがオンライン不登校支援プログラム「room-K」ですね。

教育におけるオンラインの可能性を感じたことで、新たに不登校支援プログラムを立ち上げることになりました。「自治体と連携しながらやろう」という話は最初の段階からしていたので、興味をもってくれた自治体のところへ足を運び、打ち合わせもしました。

正直、最初は戸惑いもありました。もともと「オンラインの事業をやりたい」と思ってカタリバへ入職したわけではありませんから。

でも、子どもたちがカタリバオンラインやroom-Kに来て変化していく過程を見ていると、これまでの経験、知識、そして葛藤がつながっていることに気づかされて。教育には学校以外の評価軸が必要で、b-labはまさに実践の場でした。room-Kでも、子どもたちの学びのあり方や評価軸は自由にしていきたい気持ちに変わりはありません。

常に「こどもまんなか」であるために

――b-lab、カタリバオンライン、room-Kとカタリバの中で役割が変わる中で、教育への考え方は変わりましたか?

どうなんでしょう。子ども一人ひとりが幸せを見つけて、自ら幸せな状態に近づける力を育んでいくことが大事という気持ちは強くなってきています。こども家庭庁ができて「こどもまんなか」という言われ方もするようになりましたし、子ども中心でありたいですね。

もしかしたら、いろんな角度から教育に携わることで自分の考え方に自信をもてるようになったかもしれません。もちろん「先生ひとりが頑張ればいい」という話ではなく、環境そのものに働きかけていく必要もある。その働きかけは、立場的に学校の半歩外にいる僕らだからこそできるかもしれないと考えています。

――今後やりたいことを教えてください。

いっぱいありますが、今は自分の責任を果たしたいです。room-Kはまだ始まったばかりで、効果はまだわからない。だから、自治体などでも地域によっては「オンラインで不登校の子どもを支援する」という選択肢自体がまだありません。

僕らが実践を通じて成果を出し、新たな選択肢を提示していきたいですね。ただ、当然学校も変わらなければ、新たな選択肢を提示しても受け入れられない可能性もあります。いずれは学校の生徒指導の部分などにも関わっていくことで、先生たちの理解を得ながら、ゆるやかに変化を生み出していきたいと思います。

――では、最後に瀬川さんが一緒に働きたいと思う人物像について教えてください。

大きく分けると、2つあります。

1つは、今カタリバにない力や経験をもっている方です。カタリバの事業は僕が入職したときよりも大きくなってきていて、今後もいろいろなことをやっていく可能性があります。組織に対する期待値が大きくなってきているので、「教育現場でやっていました」みたいな人だけでは乗り越えられない場面もあると思うんです。ビジネスの現場などで知識や経験を積んできた方には、ぜひもっとチャレンジしていただきたいですね。

もう1つは、子どもと本気で向き合える人。どんないいサービスや仕組みをつくっても、子どもの前に立つ大人が本気でなければ意味がないので。知識や経験があるに越したことはないけれど、目の前の子どものことに本気になって汗をかけることが一番大事です。

 

子どもたちがそれぞれの幸せな姿に近づけるよう、選択肢を増やしていきたいと考えている瀬川。そういった状況を実現するためには、先生だけに任せるべきではないと語る。

先生たちの努力や苦悩を知っている瀬川だからこそ、学校現場ではない立場から、日本の教育を変えようと挑戦しているのかもしれない。

 

この連載の記事
「ここがあったから夢が見つかった」という居場所をつくりたい。被災地の子どもたちとの8年間
「“問い”はいつも現場にあるから」震災を機に被災地に移住した彼の10年間
「学校を最も豊かな学びの場に」探究学習の先進地・双葉みらいラボが見据えるこれから 
支援現場から「こども家庭庁」へ。10年間子どもたちと向き合い続けた彼の、新たな挑戦
ユースセンターを当たり前に。子どもたちと向き合い続けて見つけた「社会を変える」ための道筋

関連記事
「不登校のいま」を知る。オンラインを活用した不登校支援の試みとは?不登校支援DXプログラム活動報告会
「官民連携でのメタバース空間を活用した不登校支援とは?」連携自治体を招いた最前線セミナーレポート


 

カタリバで働くことに関心のある方はぜひ採用ページをご覧ください

採用ページはこちら

Writer

田中 嘉人 ライター

ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。

このライターが書いた記事をもっと読む